twitterに投稿したけど、若干長くなったからblogにまとめた方が分かりやすいと思ったのでこっちに移転。前回エントリーで出た"集中と選択"という概念を自分に当てはめる。先輩に喝を入れてもらったので。
宣言的な
本日より超集中期間に入ります。
カフェイン&栄養ドリンク解禁
+RSS・SNS・読書の規制強化
+モチベーション関連の発言禁止。
試験日まで寝るか食うか勉強するか、
余計な情報処理は完全遮断するので、
変なツイートしてたら叱って下さい。
お願いしま〜すm(_ _)m
でも何だかんだで用事は山積みなので、1日1時間だけフリータイムを設ける。スピード意識強化ですね、はい。オーバーした分などは貯金・借金みたいな計算でプラマイ0になるようにしようかな。
現在の能力の限界を超えたことを短期間でやろうとしてるんだから、これくらいは必須だよね。肉体か精神かどっちか折れたら軌道修正します。それまでに行けるところまで突っ走る!…まぁ、若さの特権ということで。
それだけです。
では(^-^)/
2012/02/12
2012/02/08
大前研一・イチローに学ぶ"人生ポートフォリオ"。
私事ですが学業、事業、コンペと1月に一斉に山場を越える形になったので、現在は少々ダラけそうな状態です。そこでちょっぴりモチベーションが上がりそうな話題を出そうと思います。年末年始に某SNSに投稿した話の短縮版。
自分を変える3つの方法
人が変わりたいと思ったとき。何か大きな目標が出来たり、悔しい思いをしたり、このままじゃダメだと焦燥感に駆られたり。そういう時、どうやって人は変わることができるのだろうか?BBTの大前氏曰く「決意や覚悟じゃ人は変わらない、人が変わるには3つの方法しかない」だそうです。すなわち
①時間配分を変える
②場所を変える
③付き合う人を変える
確かに、決意の表明をしても生活が変わらないのであれば何も変わらないわけで。具体的に行動と環境を変えなければ意味がない。例えば①であれば、電車でぼーっとしている30分を、面倒なメールの返信に当ててみてはいかがでしょうか。それだけでも生産性は大きく変わると思います。もちろん、ぼーっとする時間があるからこそメリハリがつくって人もいるでしょうけどね。
この①②③は、①>②>③の順序で実行しやすいんじゃないかと思っていました。そして、実行難易度に比例して効果は大きくなる。難易度が高いということは、変化の度合いが大きいということを意味するわけです。住む場所を変えたり、付き合う人を変える…というのは結構ハードルが高いですよね。
なのでその法則を逆手に取れば効果は大きいはず。「1人暮らしをする。ただし、わざわざやる以上は3年以内に結果を出す。そのために有意義な生活を送る。」「◯◯の枠に捉われて進歩のないAサークルの人々とは距離を置く。ただし、わざわざやる以上は3年以内に結果を出す。そのために◯◯なコミュニティに積極的にコミットする。」みたいなね。一歩間違えると転居リスクや痛いヤツになってしまう恐れがある、ってのは否定できないけど。人生台無しになるレベルの失敗さえしなければ、やらない後悔よりやって後悔した方がいいかもしれません。
…とまぁ、こういう感じのことを考えていたんですよ。①に関してはムダ時間を徹底的に削ることでクリアしてきたので、自分がさらにレベルアップするには②③しかないんじゃないかと私は考えていたのです。
人生ポートフォリオ
しかし「①時間配分を変える」という言葉は、ビジネス書やライフハックで見るような「ムダ時間の削減」「時間の有効活用」という意味の他に「取捨選択」という意味があるのだと気付きました。ちょうど1ヶ月くらい前ですが、イチローの学生時代の話を初めて知ったことがきっかけです。
イチローは日本で最も有名なメジャーリーガーですが、彼は中学校の頃まで野球だけではなく勉強でもかなりの好成績だったそうです。ところがどうしてもオール5を取ることができなかったため「自分は勉強では1番になれない」と考えて「野球で1番になろう」と決意します。高校入学後は勉強を放棄して成績はドン底、代わりに生活のすべてを野球に注ぐようになったとのことです。つまり
中学まで→ 野球5:勉強5
高校から→ 野球10:勉強0
ということになります。おそらく多くの大学生を同様に表すとこんな感じになるんじゃないでしょうか。何となくのイメージですが
ムダ時間を削る前→ 勉強1:バイト2:サークル2:遊び1:空白の時間4
ムダ時間を削った後→ 勉強2:バイト3:サークル3:遊び2
確かにこれで色々と上手く回ればプラスではありますよね。でも、イチローの例に比べると、ムダ時間を削っただけでは大きな変化が得られるようになるとは思えない。ここで一念発起して勉強を頑張るとします。そのために他の活動や余暇を減らしました。すると
勉強7:バイト1:サークル1:遊び1
これなら一流ゼミだって合格するだろうし、単なる頻出問題回答マシーンを越えてより有意義な学習だってできるはずです。予め目標を決めておいて、それが達成できたら休んでいた分バイトを頑張るなり、サークルや友人との遊びを思う存分楽しめるはず。少なくとも、漠然とした不安を持っているよりも遥かにプラスだと想像できるんじゃないでしょうか。
このように、「①時間配分を変える」という言葉の真意もまた、空間や人間関係と同じように環境設定の問題なのです。あるいは選択と集中という言葉で置き換えても良い。つまるところ「時間」という有限な資源のもとでいかに自分の行動を選んで行くかというポートフォリオ形成の問題なのです。
生き方を変える
大前氏が言うように、人が変わるには時間配分・場所・コミュニティを変えるしかない。それは小手先のテクニックではなく「自分がどういうことにのめり込んで行きたいか」「どういう場所でどんな生活がしたいか」「どんな人たちとどういう風に関わっていきたいか」といった生き方そのものを変えるということです。
イチローが他のものを捨ててでも野球にのめり込むという意思決定をしたように「(当面だけでもいいから)これに集中する」という選択ができれば、そしてその選択に適した環境作りを厭わなければ、面白いほど自分を取り巻く状況が変わって行くのではないでしょうか。
ということを最近考えておりましたとさ。
私自身の生活にも適用させてるんだが、その話は長くなるのでまたの機会に。
自分を変える3つの方法
人が変わりたいと思ったとき。何か大きな目標が出来たり、悔しい思いをしたり、このままじゃダメだと焦燥感に駆られたり。そういう時、どうやって人は変わることができるのだろうか?BBTの大前氏曰く「決意や覚悟じゃ人は変わらない、人が変わるには3つの方法しかない」だそうです。すなわち
①時間配分を変える
②場所を変える
③付き合う人を変える
確かに、決意の表明をしても生活が変わらないのであれば何も変わらないわけで。具体的に行動と環境を変えなければ意味がない。例えば①であれば、電車でぼーっとしている30分を、面倒なメールの返信に当ててみてはいかがでしょうか。それだけでも生産性は大きく変わると思います。もちろん、ぼーっとする時間があるからこそメリハリがつくって人もいるでしょうけどね。
この①②③は、①>②>③の順序で実行しやすいんじゃないかと思っていました。そして、実行難易度に比例して効果は大きくなる。難易度が高いということは、変化の度合いが大きいということを意味するわけです。住む場所を変えたり、付き合う人を変える…というのは結構ハードルが高いですよね。
なのでその法則を逆手に取れば効果は大きいはず。「1人暮らしをする。ただし、わざわざやる以上は3年以内に結果を出す。そのために有意義な生活を送る。」「◯◯の枠に捉われて進歩のないAサークルの人々とは距離を置く。ただし、わざわざやる以上は3年以内に結果を出す。そのために◯◯なコミュニティに積極的にコミットする。」みたいなね。一歩間違えると転居リスクや痛いヤツになってしまう恐れがある、ってのは否定できないけど。人生台無しになるレベルの失敗さえしなければ、やらない後悔よりやって後悔した方がいいかもしれません。
…とまぁ、こういう感じのことを考えていたんですよ。①に関してはムダ時間を徹底的に削ることでクリアしてきたので、自分がさらにレベルアップするには②③しかないんじゃないかと私は考えていたのです。
人生ポートフォリオ
しかし「①時間配分を変える」という言葉は、ビジネス書やライフハックで見るような「ムダ時間の削減」「時間の有効活用」という意味の他に「取捨選択」という意味があるのだと気付きました。ちょうど1ヶ月くらい前ですが、イチローの学生時代の話を初めて知ったことがきっかけです。
イチローは日本で最も有名なメジャーリーガーですが、彼は中学校の頃まで野球だけではなく勉強でもかなりの好成績だったそうです。ところがどうしてもオール5を取ることができなかったため「自分は勉強では1番になれない」と考えて「野球で1番になろう」と決意します。高校入学後は勉強を放棄して成績はドン底、代わりに生活のすべてを野球に注ぐようになったとのことです。つまり
中学まで→ 野球5:勉強5
高校から→ 野球10:勉強0
ということになります。おそらく多くの大学生を同様に表すとこんな感じになるんじゃないでしょうか。何となくのイメージですが
ムダ時間を削る前→ 勉強1:バイト2:サークル2:遊び1:空白の時間4
ムダ時間を削った後→ 勉強2:バイト3:サークル3:遊び2
確かにこれで色々と上手く回ればプラスではありますよね。でも、イチローの例に比べると、ムダ時間を削っただけでは大きな変化が得られるようになるとは思えない。ここで一念発起して勉強を頑張るとします。そのために他の活動や余暇を減らしました。すると
勉強7:バイト1:サークル1:遊び1
これなら一流ゼミだって合格するだろうし、単なる頻出問題回答マシーンを越えてより有意義な学習だってできるはずです。予め目標を決めておいて、それが達成できたら休んでいた分バイトを頑張るなり、サークルや友人との遊びを思う存分楽しめるはず。少なくとも、漠然とした不安を持っているよりも遥かにプラスだと想像できるんじゃないでしょうか。
このように、「①時間配分を変える」という言葉の真意もまた、空間や人間関係と同じように環境設定の問題なのです。あるいは選択と集中という言葉で置き換えても良い。つまるところ「時間」という有限な資源のもとでいかに自分の行動を選んで行くかというポートフォリオ形成の問題なのです。
生き方を変える
大前氏が言うように、人が変わるには時間配分・場所・コミュニティを変えるしかない。それは小手先のテクニックではなく「自分がどういうことにのめり込んで行きたいか」「どういう場所でどんな生活がしたいか」「どんな人たちとどういう風に関わっていきたいか」といった生き方そのものを変えるということです。
イチローが他のものを捨ててでも野球にのめり込むという意思決定をしたように「(当面だけでもいいから)これに集中する」という選択ができれば、そしてその選択に適した環境作りを厭わなければ、面白いほど自分を取り巻く状況が変わって行くのではないでしょうか。
ということを最近考えておりましたとさ。
私自身の生活にも適用させてるんだが、その話は長くなるのでまたの機会に。
2012/02/07
アシタカがなぜイケメンなのか本気で考察してみた。
とりあえずblogを更新していこう、ということで。
あえてこんなテーマでエントリーを書いてみました。
001♦ 誤解
正直ほとんどの人が「アシタカがイケメンな理由」を誤解していると思います。というか一度も理由を考えたことがない人がほとんどではないでしょうか。しかしジブリマニアとして1人でも多くの方に「ジブリから学べることがこんなにあるんだ!」みたいな知的体験をしてもらいたいのです←
アシタカはご存知の通り、映画『もののけ姫』の主人公です。この作品では人と自然の対立構造、そして「サン(もののけ姫=自然)は山で、私(アシタカ=人間)はたたら場で暮らそう」という結末を迎える事で、人間と自然とが完全には調和しきれないことを暗示しています。…みたいな解釈が色々あってどれが正しいのかは分からないけどね!w
そしてアシタカはジブリ史上でもかなりの上位に食い込むイケメンです。映画の中では圧倒的な存在感もといイケメンオーラを出しています。ルックスが格好良い?威風堂々とした態度が素敵?行動力が素晴らしい?それとも自分の信念を曲げないところがしびれる?
残念ですが、これらは決定的な要因にはなっていません。
そのことを証明してみせましょう。
002♦ 証明
①ルックスが格好良い?
A.まゆげの太さと等身を見てみろ。あとファッション。
外見だけで考えればそこまででもないと思います。
客観的に。フィルターを外して見ると。
少なくともルックスが決定的な要因だとは思えない。
②威風堂々とした態度が素敵?
③行動力が素晴らしい?
④自分の信念を曲げないところがしびれる?
A.サンとエボシも大差ないやん。
家族と自然を守るために傷つきながらも戦い続けるサン。障碍者や病人に対する雇用創出によって彼らに生き甲斐を与え、民衆を守る為に必要な自然資源を手に入れるべくしてもののけたちとの命がけの戦いに身を投じるエボシ。彼女たちも②③④を満たしています。だからアシタカだけがこれらの理由で評価されるのは本来ならあり得ないのです。
003♦ 反論
この意見に対する反論として
・いや、そいつら女性だからイケメンオーラは出ないんでないか?
・自分たちの信念ばかりの2人と違ってアシタカは全体を見ている。
こんな感じの意見もあると思います。
しかし、
・女性でもイケメンオーラを出すのがジブリ黄金期(例:ナウシカ)
・アシタカは自分の呪いを解きたい→自然が苦しむのは呪い悪化に繋がるから阻止したい→呪いの発端となった鉄砲はたたら場のものだから人間側には全面同調できない→でも俺も人間だからなぁ、という立場上の構造。どっちに軍配が挙がってもアシタカにはマイナス効果なので、自分の利益を守るために第三勢力となっただけなのです。つまり他のキャラと本質的には何も変わらないはずのです。
しかもタタラ場/シシ神の森はアシタカにとってはあくまで「他人の土地」。だからこそ広い視野を持っていられたのであって、事実、自分の村が祟り神に襲われたオープニングでは躊躇なく弓矢で殺しています。もちろん旅の途中で自然・人間の関係について悩んで成熟していったのでしょうが、立場的に自由な状況でなければサンやエボシと何ら変わらないはずなのです。
004♦ 回答
では何がアシタカをイケメンたらしめているのか?
ずばりそれは「ポジショニング」です。
ルックスはそこまで良い訳ではないのに見た目もイケメンに見える。それは「作中に他の若い男性が登場しないから」であって、平均値が低い状態だと際立ってイケメンに見えるのです。この点に気付かない人は意外と多いんじゃないかな。
他のキャラにも信念・行動力・態度の魅力はあるはずのにアシタカのそれが強調される。それは「他のキャラが自分の利潤のために自然・人間という対立構造で争う中で、最も広い視野を持って平和的に行動することがアシタカの利潤最大化に繋がる状況下だったから」であって、地元での戦いとかだとちょっとヤバかったんじゃないかなー、多分。
つまり、視聴者から見てかっこいいと思えるような場所を上手く占拠しているんですよ。独占企業の関数を応用すればアシタカのイケメン補正を計算できるんじゃないかと思うくらい、完璧なポジショニングですね。
005♦ 適用
ここから学べることはただ1つ。すなわち「自分自身を変えるのではなく、現在の自分自身のままで最も輝ける場所を見つけよ」ということ。
もちろんアシタカに「強い信念、行動力、態度」が前提となっていたように、自分自身をグレードアップするに超したことはない。だけど工夫次第では今自分が持っているもの、当たり前の行動、自分の利益のための言動が、とんでもないパワーを持つようになるかもしれない。
てな感じで、マーケティングや人生について「ポジショニング」という観点から考えてみてはいかがでしょうか!?
…なにこの茶番w
もう少しマジメなの書こう、うん。
あえてこんなテーマでエントリーを書いてみました。
もののけ姫 [DVD] ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント 2011-10-17 売り上げランキング : 929 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
001♦ 誤解
正直ほとんどの人が「アシタカがイケメンな理由」を誤解していると思います。というか一度も理由を考えたことがない人がほとんどではないでしょうか。しかしジブリマニアとして1人でも多くの方に「ジブリから学べることがこんなにあるんだ!」みたいな知的体験をしてもらいたいのです←
アシタカはご存知の通り、映画『もののけ姫』の主人公です。この作品では人と自然の対立構造、そして「サン(もののけ姫=自然)は山で、私(アシタカ=人間)はたたら場で暮らそう」という結末を迎える事で、人間と自然とが完全には調和しきれないことを暗示しています。…みたいな解釈が色々あってどれが正しいのかは分からないけどね!w
そしてアシタカはジブリ史上でもかなりの上位に食い込むイケメンです。映画の中では圧倒的な存在感もといイケメンオーラを出しています。ルックスが格好良い?威風堂々とした態度が素敵?行動力が素晴らしい?それとも自分の信念を曲げないところがしびれる?
残念ですが、これらは決定的な要因にはなっていません。
そのことを証明してみせましょう。
002♦ 証明
①ルックスが格好良い?
A.まゆげの太さと等身を見てみろ。あとファッション。
外見だけで考えればそこまででもないと思います。
客観的に。フィルターを外して見ると。
少なくともルックスが決定的な要因だとは思えない。
②威風堂々とした態度が素敵?
③行動力が素晴らしい?
④自分の信念を曲げないところがしびれる?
A.サンとエボシも大差ないやん。
家族と自然を守るために傷つきながらも戦い続けるサン。障碍者や病人に対する雇用創出によって彼らに生き甲斐を与え、民衆を守る為に必要な自然資源を手に入れるべくしてもののけたちとの命がけの戦いに身を投じるエボシ。彼女たちも②③④を満たしています。だからアシタカだけがこれらの理由で評価されるのは本来ならあり得ないのです。
003♦ 反論
この意見に対する反論として
・いや、そいつら女性だからイケメンオーラは出ないんでないか?
・自分たちの信念ばかりの2人と違ってアシタカは全体を見ている。
こんな感じの意見もあると思います。
しかし、
・女性でもイケメンオーラを出すのがジブリ黄金期(例:ナウシカ)
・アシタカは自分の呪いを解きたい→自然が苦しむのは呪い悪化に繋がるから阻止したい→呪いの発端となった鉄砲はたたら場のものだから人間側には全面同調できない→でも俺も人間だからなぁ、という立場上の構造。どっちに軍配が挙がってもアシタカにはマイナス効果なので、自分の利益を守るために第三勢力となっただけなのです。つまり他のキャラと本質的には何も変わらないはずのです。
しかもタタラ場/シシ神の森はアシタカにとってはあくまで「他人の土地」。だからこそ広い視野を持っていられたのであって、事実、自分の村が祟り神に襲われたオープニングでは躊躇なく弓矢で殺しています。もちろん旅の途中で自然・人間の関係について悩んで成熟していったのでしょうが、立場的に自由な状況でなければサンやエボシと何ら変わらないはずなのです。
004♦ 回答
では何がアシタカをイケメンたらしめているのか?
ずばりそれは「ポジショニング」です。
ルックスはそこまで良い訳ではないのに見た目もイケメンに見える。それは「作中に他の若い男性が登場しないから」であって、平均値が低い状態だと際立ってイケメンに見えるのです。この点に気付かない人は意外と多いんじゃないかな。
他のキャラにも信念・行動力・態度の魅力はあるはずのにアシタカのそれが強調される。それは「他のキャラが自分の利潤のために自然・人間という対立構造で争う中で、最も広い視野を持って平和的に行動することがアシタカの利潤最大化に繋がる状況下だったから」であって、地元での戦いとかだとちょっとヤバかったんじゃないかなー、多分。
つまり、視聴者から見てかっこいいと思えるような場所を上手く占拠しているんですよ。独占企業の関数を応用すればアシタカのイケメン補正を計算できるんじゃないかと思うくらい、完璧なポジショニングですね。
005♦ 適用
ここから学べることはただ1つ。すなわち「自分自身を変えるのではなく、現在の自分自身のままで最も輝ける場所を見つけよ」ということ。
もちろんアシタカに「強い信念、行動力、態度」が前提となっていたように、自分自身をグレードアップするに超したことはない。だけど工夫次第では今自分が持っているもの、当たり前の行動、自分の利益のための言動が、とんでもないパワーを持つようになるかもしれない。
てな感じで、マーケティングや人生について「ポジショニング」という観点から考えてみてはいかがでしょうか!?
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2012/02/06
脱・"持論" 論。
持論に振り回されるくらいなら、黙って受け入れてみるのもいいんじゃない?って話。
内容は「blogspot開始の報告」「これまでのblogでの反省点」「"とにかくやってみる"ってのが大事」という流れです。
完全に自分1人に関することですが、なんらかの形で参考になれば幸いです。
blogspot開始の報告
性懲りもなく新しいblogを立ち上げてみました。
これまでblogらしきものはmixi日記、livedoor blog、tumblr、togetter、wordpressを使ってきたのですが今回はblogspotで作ってみました。
辞めた理由をまとめると
・mixi日記はユーザーが減ったから
・livedoor blogは問題発言が多くて黒歴史になったから
・tumblrは画像や文章共有用にしたいから
・togetterは長文ツイートでTL荒らすのが申し訳ないから
・wordpressは自分のデザインセンスのなさを痛感したからw(まだ諦めてはいない)
各種WEBサービスの使い分けの話(togetter, tumbler)はまたの機会にするとして今日はblogの話。
これまでのblogでの反省点(livedoor)
livedoor blogを使っていた時期はですね、非常に視野の狭い人間だったんですよ。実利的ではなかったんです。知識と思考力を高めることに専念していて、ガンガン議論してレベルアップしていこう!みたいな感じでした。そのこと自体は悪いことではないのですが、議論・主張と一言にいっても色々な考え方があるわけですよね。
例えば「学生にきっかけを与える!」みたいな講演会の是非を考えるとしましょう。個人的にはこの手の理念があまり好きではありません。きっかけを与えるって何?きっかけを与えられた学生は具体的にどう変わるの?貴方はきっかけを与え続けているだけで、具体的な価値を生み出さないの?といったことを思ってしまうからです。今でもたまにこういうエントリーがバズったりしますよね。
でも、こういう主張って結構ナンセンスだということに気付き始めたのです。
生産性という面でも、そして本質的な議論という意味でも。
Q.その主張は何を生み出すのか?
A.一瞬のバズリと、多少のリプライ議論と、わずかなフォロワー。
決してそうした活動をしている人の理念に活かされることはない。むしろ真剣に活動している人に水を差すだけだったりする。自分が携わっていないのに外から言う場合、あまり意味がないことの方が多い。
Q.その主張は本当に正しいのか?
A.ある意味では妥当だし、ある意味では不適切。そもそも「きっかけを与える」ことの効果測定はできないから、問題設定の時点で無意味。さらに、与える「きっかけ」が具体的なものでなければならないという前提が既に一方的。何をもって行為を良いと解釈するかで結論が変わったりする。だからバズった後のTLでは互いの前提意識・定義を確認して落としどころに到達するという毎回同じパターンだったり。
つまり、この手の議論というのは、多くの場合「解釈次第で結論が変わる。そのくせ現実は何も変わらない」というパターンが多いのではないかと思ったのです。数独やチェスと同じ、ただの思考ゲームなんじゃないかと。それはそれで楽しいですが、人生はそこまで長くもないので、もう少し生産性・実利を優先してもいいんじゃないかという結論に至ったのです。
これまでのblogでの反省点(wordpress)
んで、livedoor blogでの黒歴史を乗り越えてwordpressを初めたわけです。ここではなるべく「おしゃんてぃーなデザイン」「誰かの役に立つ情報提供」を心掛けようとしていました…が、世の中そんなに甘くなかった。
wordpressでの反省点 〜デザイン〜
まず、自分自身にデザインセンスがそこまでなかった!w
これは致命的ですね。個人的にはいわゆる「デザイン厨」みたいな人がそこまで好きではないので、あんまりそういう人のもたらす情報に興味を示さなかったんですよ。「デザイン厨」っていうのは例えば、プレゼンテーションのスライドはすごく奇麗なのに中身がそこまで大したことない…みたいな感じの人です。なんとなくすごく見えるので、周囲の評判は良かったりするんです。でも中身がないので、その話を聴いても得るものはないんですよ。だからそういったデザイン偏重の情報に積極的に関与しようとしなかった。
そうなると、デザインセンスなんて身に付くわけがないんですよ。相手がどうであれ「プレゼンテーションのスライドが奇麗だ」と思ったのならば、「そのデザイン技術を盗む」ってのが最適解だと思うのです。中身がどうこうなんて、下らない持論をいくら掲げても何もプラスはないのだから、少しでも模倣できないか、デザインのポイントは何かといったことを吸収することに意識を向けないと。デザイン厨、デザイン厨ってお前はロジック厨か!と自分を批判しないと。
というわけで、どんどん積極的に良さげなデザインを見つけてチェックするようにします。TumblrやPinterestを活用しようかなと。おしゃんてぃーと評判のWEBサイトを見て回る、デザインのコツが書かれた記事を呼んでみる。その繰り返しでセンスを見につけていくしかないのかなと。
wordpressでの反省点 〜情報処理〜
そして、誰かの役に立つ情報提供っていうのも簡単じゃない!
自分ではよかれと思ってもニーズと不一致ならば意味がないし、そもそもそこまで情報発信が継続できない。考えてみれば当たり前なんですけど、どんなニュースや人気ブロガーも圧倒的に量が違うんですよね。ここでいう量というのは「自分自身が読む量」と「他人に向けて発信する量」どっちも。
例えば、ニュースやWEB記事を1000読んで、そのうち3つだけをtwitterでオススメする。これを1ヶ月続けたらどうだろうか?1ヶ月前に比べて確実に情報処理・情報提供の価値が上がると思う。少なくとも、普段から情報を「吸収して」「発信する」ということが習慣付いている人、それも圧倒的な量に基づいている人とそうでない人がblogを書くとしたら、おそらくかなり高い割合で前者の書いたエントリーのほうが良質なものになるのではないでしょうか。
そういう慣れもない状態で、あれこれと構想して自分なりに運営ルールを作るというのは少々愚かだったと思うのです。最初はなんとなくでもいいからとにかくやってみる。アクセスは自分だけでもいい。やっていくうちに「あなたのブログのここがダメ」みたいな記事にぶち当たる。意外と痛いところをつかれてたりする。そこを改善していく。そういった指摘は、考えてみれば当たり前だ!ということが多いように思えますが、じゃあ最初に想定しておけばいいかというと「想定疲れ」みたいな状態になって尻窄みになってしまう…のが少なくとも私の場合は多いです。
"とにかくやってみる"
議論、デザイン、情報処理。どれも自分勝手な持論に自分で振り回されていました。議論に関しても"対立意見の正しさを受け入れる"ことが不十分という意味で同義です。相手が明瞭な論理で根拠を示さない限り、自分から進んで相手の正しさを補助する根拠を探そうとはしなかったのです。
最初にあれこれ頭や心で判断するよりも、とりあえず手を動かしてみる。その方が案外上手く行くことって結構多いのではないでしょうか。blogを書くのって、スポーツで言ったら素振りみたいなものですよね。わざわざ素振りをするのにあれこれ考えない。もちろん1本1本を丁寧にやるべきだけれど、最初からそこまで考えてたら始まらない。やっていくうちに、自分のフォームの悪さを指摘されたり、悩んだりしてできるようになっていくわけで。
他の人との関わりについても、相手選手が好きか嫌いかなんて関係なしに良いところは盗むし悪い部分は反面教師にする。高校の部活でできていたことなんだから、そういう経験をどんどん人生に応用していかないとナンセンスですよね。
そういうわけで、googleアカウントがあれば10分で始められるblogspotを始めました。
あんまり力を入れすぎず「ゆるりと」更新していきたいと思います。
読みやすくて、エキサイティングで、実用的なエントリーが書けるようになるまでお待ちいただければと思います。
内容は「blogspot開始の報告」「これまでのblogでの反省点」「"とにかくやってみる"ってのが大事」という流れです。
完全に自分1人に関することですが、なんらかの形で参考になれば幸いです。
blogspot開始の報告
性懲りもなく新しいblogを立ち上げてみました。
これまでblogらしきものはmixi日記、livedoor blog、tumblr、togetter、wordpressを使ってきたのですが今回はblogspotで作ってみました。
辞めた理由をまとめると
・mixi日記はユーザーが減ったから
・livedoor blogは問題発言が多くて黒歴史になったから
・tumblrは画像や文章共有用にしたいから
・togetterは長文ツイートでTL荒らすのが申し訳ないから
・wordpressは自分のデザインセンスのなさを痛感したからw(まだ諦めてはいない)
各種WEBサービスの使い分けの話(togetter, tumbler)はまたの機会にするとして今日はblogの話。
これまでのblogでの反省点(livedoor)
livedoor blogを使っていた時期はですね、非常に視野の狭い人間だったんですよ。実利的ではなかったんです。知識と思考力を高めることに専念していて、ガンガン議論してレベルアップしていこう!みたいな感じでした。そのこと自体は悪いことではないのですが、議論・主張と一言にいっても色々な考え方があるわけですよね。
例えば「学生にきっかけを与える!」みたいな講演会の是非を考えるとしましょう。個人的にはこの手の理念があまり好きではありません。きっかけを与えるって何?きっかけを与えられた学生は具体的にどう変わるの?貴方はきっかけを与え続けているだけで、具体的な価値を生み出さないの?といったことを思ってしまうからです。今でもたまにこういうエントリーがバズったりしますよね。
でも、こういう主張って結構ナンセンスだということに気付き始めたのです。
生産性という面でも、そして本質的な議論という意味でも。
Q.その主張は何を生み出すのか?
A.一瞬のバズリと、多少のリプライ議論と、わずかなフォロワー。
決してそうした活動をしている人の理念に活かされることはない。むしろ真剣に活動している人に水を差すだけだったりする。自分が携わっていないのに外から言う場合、あまり意味がないことの方が多い。
Q.その主張は本当に正しいのか?
A.ある意味では妥当だし、ある意味では不適切。そもそも「きっかけを与える」ことの効果測定はできないから、問題設定の時点で無意味。さらに、与える「きっかけ」が具体的なものでなければならないという前提が既に一方的。何をもって行為を良いと解釈するかで結論が変わったりする。だからバズった後のTLでは互いの前提意識・定義を確認して落としどころに到達するという毎回同じパターンだったり。
つまり、この手の議論というのは、多くの場合「解釈次第で結論が変わる。そのくせ現実は何も変わらない」というパターンが多いのではないかと思ったのです。数独やチェスと同じ、ただの思考ゲームなんじゃないかと。それはそれで楽しいですが、人生はそこまで長くもないので、もう少し生産性・実利を優先してもいいんじゃないかという結論に至ったのです。
これまでのblogでの反省点(wordpress)
んで、livedoor blogでの黒歴史を乗り越えてwordpressを初めたわけです。ここではなるべく「おしゃんてぃーなデザイン」「誰かの役に立つ情報提供」を心掛けようとしていました…が、世の中そんなに甘くなかった。
wordpressでの反省点 〜デザイン〜
まず、自分自身にデザインセンスがそこまでなかった!w
これは致命的ですね。個人的にはいわゆる「デザイン厨」みたいな人がそこまで好きではないので、あんまりそういう人のもたらす情報に興味を示さなかったんですよ。「デザイン厨」っていうのは例えば、プレゼンテーションのスライドはすごく奇麗なのに中身がそこまで大したことない…みたいな感じの人です。なんとなくすごく見えるので、周囲の評判は良かったりするんです。でも中身がないので、その話を聴いても得るものはないんですよ。だからそういったデザイン偏重の情報に積極的に関与しようとしなかった。
そうなると、デザインセンスなんて身に付くわけがないんですよ。相手がどうであれ「プレゼンテーションのスライドが奇麗だ」と思ったのならば、「そのデザイン技術を盗む」ってのが最適解だと思うのです。中身がどうこうなんて、下らない持論をいくら掲げても何もプラスはないのだから、少しでも模倣できないか、デザインのポイントは何かといったことを吸収することに意識を向けないと。デザイン厨、デザイン厨ってお前はロジック厨か!と自分を批判しないと。
というわけで、どんどん積極的に良さげなデザインを見つけてチェックするようにします。TumblrやPinterestを活用しようかなと。おしゃんてぃーと評判のWEBサイトを見て回る、デザインのコツが書かれた記事を呼んでみる。その繰り返しでセンスを見につけていくしかないのかなと。
wordpressでの反省点 〜情報処理〜
そして、誰かの役に立つ情報提供っていうのも簡単じゃない!
自分ではよかれと思ってもニーズと不一致ならば意味がないし、そもそもそこまで情報発信が継続できない。考えてみれば当たり前なんですけど、どんなニュースや人気ブロガーも圧倒的に量が違うんですよね。ここでいう量というのは「自分自身が読む量」と「他人に向けて発信する量」どっちも。
例えば、ニュースやWEB記事を1000読んで、そのうち3つだけをtwitterでオススメする。これを1ヶ月続けたらどうだろうか?1ヶ月前に比べて確実に情報処理・情報提供の価値が上がると思う。少なくとも、普段から情報を「吸収して」「発信する」ということが習慣付いている人、それも圧倒的な量に基づいている人とそうでない人がblogを書くとしたら、おそらくかなり高い割合で前者の書いたエントリーのほうが良質なものになるのではないでしょうか。
そういう慣れもない状態で、あれこれと構想して自分なりに運営ルールを作るというのは少々愚かだったと思うのです。最初はなんとなくでもいいからとにかくやってみる。アクセスは自分だけでもいい。やっていくうちに「あなたのブログのここがダメ」みたいな記事にぶち当たる。意外と痛いところをつかれてたりする。そこを改善していく。そういった指摘は、考えてみれば当たり前だ!ということが多いように思えますが、じゃあ最初に想定しておけばいいかというと「想定疲れ」みたいな状態になって尻窄みになってしまう…のが少なくとも私の場合は多いです。
"とにかくやってみる"
議論、デザイン、情報処理。どれも自分勝手な持論に自分で振り回されていました。議論に関しても"対立意見の正しさを受け入れる"ことが不十分という意味で同義です。相手が明瞭な論理で根拠を示さない限り、自分から進んで相手の正しさを補助する根拠を探そうとはしなかったのです。
最初にあれこれ頭や心で判断するよりも、とりあえず手を動かしてみる。その方が案外上手く行くことって結構多いのではないでしょうか。blogを書くのって、スポーツで言ったら素振りみたいなものですよね。わざわざ素振りをするのにあれこれ考えない。もちろん1本1本を丁寧にやるべきだけれど、最初からそこまで考えてたら始まらない。やっていくうちに、自分のフォームの悪さを指摘されたり、悩んだりしてできるようになっていくわけで。
他の人との関わりについても、相手選手が好きか嫌いかなんて関係なしに良いところは盗むし悪い部分は反面教師にする。高校の部活でできていたことなんだから、そういう経験をどんどん人生に応用していかないとナンセンスですよね。
そういうわけで、googleアカウントがあれば10分で始められるblogspotを始めました。
あんまり力を入れすぎず「ゆるりと」更新していきたいと思います。
読みやすくて、エキサイティングで、実用的なエントリーが書けるようになるまでお待ちいただければと思います。
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