【英語編】
お言葉①:退屈な授業への対処法
どんな授業でも自分の心ひとつで有意義になる!とよく聞きます。その通りだと思う。とは言っても、退屈な授業というのはあるもので。基本的に、退屈な授業にはいくつかのパターンがあります。教授の話し方、板書の仕方、難しすぎる、簡単すぎる…といった具合に。
声が聞こえない・板書が見えないときには、前の席に座ればいい。話や板書が早すぎるときには、予習して先に理解しておけばポイントを抑えて授業について行ける。難易度が自分にとって高すぎるのであれば、しっかりと復習をしたり、必要に応じて知識不足を補うような勉強をすればいい。スピードでも難易度でも、自分<授業のときは自分自身を引き上げればいいので解決策を考えるのはそこまで難しくない(実行は楽ではない)。
問題は授業<自分のパターン。話が遅い、問題が簡単すぎる。こういうときには「寝る」「帰る」「内職」というのが定番パターンでしょう。色々な意見はあると思うけど、私個人はこれでもいいと思います。その時間がもったいないと感じてしまうのはやむを得ないかと。
ここで教授の言葉。
「ある優秀な学生がいて、その人は絶対に授業をサボらない人だった。授業中に、授業と無関係なことをするなんてことは一度もなかった。そこで聞いてみた。『そうは言っても退屈な授業というのはあるだろう、そういうときはどうしているんだ』と。するとその人はこう言ったんだ。『その場で英語に訳しています』って。これは驚いた。退屈な授業というのは先生の話が遅いから英語に直して聞くとちょうどいいスピードになるらしいよ。というわけで私の授業が退屈だったらぜひやってみて下さい。」
この言葉は結構なイノベーションでした。確かに退屈な授業を120%活かせる方法ですね。全然思いつかなかった。復習時間を設けるまでもなく内容の定着に繋がるし、他に英語学習のための時間を取ることなく英語の実践機会を得ることになるのだからナイスすぎる。
退屈な授業への対処法
① 寝る
② 帰る
③ 内職
④ その場で英訳する ←new!!
ちなみにこの話をしてくれた方の授業は死ぬほど退屈だったので早速実践してみました。スピード的には丁度良い感じです。情報量の多い時間と少ない時間(雑談や解説繰り返しタイム)の差が激しいので、新しい情報が追加されたときに少々忙しくなりますが、まぁその程度です。かなり有意義な授業になったと思いますw
問題は語彙。専門用語はとっさに出てこないです。例えば「xで偏微分する」と言われたときに「微分の頭文字は多分Dだと思う(計算式でdxとか書くから)」と思いつくものの、そこでストップします(微分:differentiate)。あまりにもテクニカルタームが多くて心が折れました。難点はそこだけなので、次からは電子辞書を装備して行こうと思います。
英語はできて損になることはないでしょうし、工夫次第で何でもできるってことですね、はい。
お言葉②:英語のテキストを使った方が良い
学部上級(科目によっては大学院中級)レベルになると英語のテキストも増えてくる。中には1冊2万円近くするものもあるので、さすがに購入できずに図書館を活用することになるわけです。資料を配布してくれる場合はそれを見れば良いのですが、たまにテキスト学習を前提として授業を組む教授がいるのが腹立たしいわけです。
そんな中で比較的学生に優しい教授が、それでも英語テキストを購入した方がいい理由について語ってくれました。日本語版で対応している書籍も少なくない。図書館で借りれば済むことも多い。それでも英語テキストでなければならないのは以下の理由によるそうです。
「1つ目は、より専門性の高い学習への準備。特に経済学の場合は最先端の研究が英語で行われているので、イヤでも英語の文献・データを扱うことになる。普段から英語で経済学の基本を学ぶことに慣れていれば、応用的な内容にも十分に対応できる。その手の文章は言語に関係なく(日本語でも)難解なので、基本的な概念の英語表記に抵抗があるような状態では論外だ」
「2つ目は、新規性・網羅性。同じテキストであっても、日本語版の方が少し後に出版されることになる。特に困るのが2008年以降の本について。金融危機の前と後で、議論の文脈や利用されるデータが大きく異なっている分野がある。原著では対応していても、日本語版がまだ間に合っていないものが見受けられる。また、翻訳時に練習問題が割愛されたり章立てが変更されているケースが多い。多くの場合その割愛・変更は改悪だ」
「3つ目は、使い勝手。日本語版だと上・下2冊に分けられていることが多いが、英語版は1冊で済む。地味な点だが2冊に分割されると使いにくい。また、図書館の本と違って自分で購入すれば書き込むことができる。安心して使い倒せるというのは大きい」
「4つ目は、モチベーション。英語の本で勉強している、というのはそれだけで学習のモチベーションに繋がる。普段から持ち歩くといい。友人に尋ねられたら、自信満々にそれで勉強していると言えばいい。すると今度は内容について説明できるようにならなければいけない。君は死に物狂いで勉強するようになるだろう。その勉強が君に与えるものは大きい」
「5つ目は、自信。たとえ授業の補助があったとしても、たとえ見栄が動機だったとしても、分厚い英語の教科書を1冊読み抜いたという経験は、確固たる自信をもたらすことになる。すると不思議なことに2冊目3冊目はグイグイと読めるようになる。学生のうちに1冊でも読み抜いたという人は多くない。その経験と自信は、武器にはなっても重荷になることはない」
「6つ目は、親孝行。高い金を出して一流大学に通わせてもらっているのだから、あなたの息子・娘は英語の教科書を使って勉強するくらい優秀になりましたと見せつけてあげなさい。口に出す必要はない。ただ、偶然を装って目につくところにでも置いておけばいい。下らないことのように感じるかもしれないが、昔は大学に行く人自体が少なかったのだし、どんなことであっても、親にとって、子の成長は嬉しいものだ」
というわけです。
なんというか、どこかで聞いたような言葉だらけですが、改めて言われるとなるほど〜とは思います。教授自身が研究生活の中で実感してきたからですかね、言葉に重みがありました。
【専門分野編】
お言葉③:経済学の視点が不可欠な時代
環境経済学の授業でぼそっと教授がこぼした言葉が、なんというか、まぁその通りだなと。
「環境問題に関する活動をしているとね、たまにいるんですよ。『自然を保護するのに経済学とは何事だ、お金なんて不謹慎だ』という人が。だけどじゃあなぜ環境問題が起きたのかと考えて下さい。CO2輩出の原因となる石油・石炭を大量に利用するようになったのは産業革命。森林を伐採するようになったのは土地利用の機会費用。結局は経済の問題に行き着くんですよ。環境問題はなんとなく起きているわけじゃない。強大なメカニズムの下、必然的な構造を伴って生じているんだ。だから解決するためには社会科学の知見が絶対に必要なのです。」
「そして、経済学を否定する人に限ってこう言う。『"善意"や"倫理"で解決しましょう』と。年間500万ha以上の森林が減少している一方で、道に落ちている空き缶を拾うのは10人に1人もいませんよ。どうやって解決するんですか。『多くの人に環境問題を知ってもらう』とも言いますね。いまでは誰もが地球温暖化を知っていますよ。知ってもらって解決しましたか。確かに以前に比べればだいぶ良くなったかもしれない。しかしそれは認知を通して環境配慮製品が優先されるようになったり、京都議定書のような枠組みが採択されるようになったからです。つまり、経済システム内での動きが人為的にシフトしてきたからなのです」
ごめん。やや誇張して書いているかもしれません。いかんせん記憶だけが頼りなもので。でもまぁこんな感じの内容でした。
経済学という学問はかなり応用範囲の広い学問です。解決したい問題の構造を分析して、なるべく単純なモデルに表現して、解決するための方法を挙げて、その効果を推計する。一連の分析を通して得られた最適な解決方法を実行に移すことになる。この枠組みの下では、環境問題でも貧困問題でも分析対象になり得ます。これまで全く問題視されていなかったものでも、やろうと思えば応用できるはずです。
お金に関しては、現代社会ではほぼ必然的に財務問題が生じることになりますし、仮に金銭が重要な変数ではなかった場合、経済学の考え方をまったく異なる議題に当てはめることもできます。例えば、恋愛について制約条件(時間・行動)の下でいかに効用(好感度)を最大化するか…って企業の利潤最大化行動を拡大解釈するのも面白い。思考のフレームワークとして強力なツールになりうると思うのです。
いずれにせよ、マクロでもミクロでも問題だらけの時代です。一般化して労働問題を考えるときでも、個人としての就活(そして背後にあるキャリア問題)を考えるときでも「こうすれば全部解決!」なんて都合の良い答えが用意されてるわけではありません。問題をどう捉え、どう対処するかを考えるときに経済学という視点が大事なのではないかと。
これは2年くらい前から私も言い続けていることですが改めて。
お言葉④:定量的な話をしよう
これはもう、教授のプリントをそのままコピペ。
「計測なき理論」:宗教と同じ
「理論なき計測」:同じことを繰り返すだけで何の知見も得られない
これがすべて。何を考えるにあたっても定量的な情報は絶対に不可欠だという話です。先ほどの環境問題の話なんかまさにそうですが、ここでは募金の例を挙げてみたいと思います。
例えば、1万人が1000円ずつ募金して集めた1000万円と、企業10社が100万円ずつ募金するのとではどう違うでしょう。少なくとも、集まる金額は同じです。こういうときにポイントになるのは「評価軸」と「その数値」ですよね。仮に、これが希少疾患の患者を救うための募金だとしましょう。
その病気の認知度を挙げることに重点を置くのであれば、より多くの人を巻き込むために1万人をターゲットとした戦略を打つべきでしょう。そしてアンケートを実施して「新しくこの病気を知りました」と答えた人の数、あるいはその病気を解説するホームページへのアクセス数の推移、ネット上でその病名が投稿された数の推移といったデータを見て、本当に認知度が上がったのか、上がったとしたらそれはどの程度かを測定することができます。もし思うように上がらなければ、どうやったら話題に上がりやすいかといった具体的な課題の考察に繋げることができます。
あるいは1万人も待てる状態ではない、一刻でも早く治療したいというのであれば、普段からNGO・NPOに積極的に寄付している会社や、病気・薬品に関するCSRで話題を作りたい会社に話を持ちかけることもできるでしょう。迅速な意思決定のおかげで助かりましたという被援助側のコメント、これからも色んな形で病気に苦しむ人を救いたいという会社側のコメントがあれば企業イメージのアップはハンパないんじゃないか。そういう仮説を立てた後に、では実際に企業が寄付をするのはどういう状況か、景気・株価の影響はあるか、財務状態は関係しているか、といった点はデータを見て研究しないと分からないですよね。
いずれにせよ、何かを考えると必ず「それって本当?」と思う場面にブチ当たります(ブチ当たらないのであれば、それは本気で考えていない証拠です)。そのときに本当かどうか、それがどの程度なのかを見極めるには定量的な議論が不可欠なのです。
というわけで、そういう思考・学習を意識したいなぁという話。
【受講編】
⑤全体像を掴みながら考えろ
当たり前と言えば当たり前だけど意外と難しいのがこれ。言葉をそのまま引用すると誰の発言なのか分かる人には分かってしまうかw
「常に全体像を考えなければならない。ダメなヤツは、人が話しているのをぼけーっと聞いているか、どうでもいいところまで事細かに書き留めようとする。何が大事なのか分かっていない証拠だな。さっき今日の授業のアウトラインを話したんだから、注意深いやつはしっかりメモしてるし、ダメなやつは何も聴いてないか、その後のどうでもいい雑談(教授が財政の話してたけど本題ではない)ばっか気を取られているんだこれが」
「自分自身で考えながら講義を聴いて話をまとめなさい。ダメなヤツに限って他のヤツのノートを見ようとする。そんなことしたってそいつもダメなケースが多いから共倒れになるんだ。そもそも自分で考えながらまとめないで、他のヤツのまとめなんか見たって理解できるわけがない。よっぽど優秀なヤツのノートなら話は別だが、優秀なヤツのために言っておくと、ダメなヤツは授業中うるさいから離れるようにしなさい。」
まぁこんなニュアンスのことを言って炎上してましたね。
言い分はともかく、授業中に話の要点をまとめながら聴講しなければならない授業スタイル(終了時にそのレポートを提出)は結構勉強になっています。読書の要約で3行くらいにまとめるのは得意な方だと自負していたのですが、各項目の各ポイントを明確に抑えて構造+内容を示せるか…と言われると不十分で、それはつまり情報処理能力を向上させる余地があると痛感した次第であります。なのでWEB上に限ると、今後は書籍レビューなんかも積極的にできたらいいなぁと思いつつ、とりあえずtwitterでのURL付きツイートは質を高めるよう意識し始めました。
それと海外の院に進学する友人と飲んでて話にあがった「ノートの取り方」についてもここで。多くの場合、講師の話を一言一句逃がすまいとノートに書きなぐる人は、あまり理解度が高くないです。また、奇麗なノートのデザインにこだわる人も同じです。なぜかというと意識がノートにだけ向かってしまっているからです。あくまでも目的は学習内容の理解なので、ノートやメモを多少犠牲にしてでもその場で理解するように心掛けるべきです。というか、きちんと理解すればどこをメモすべきなのか余裕を持って判断できるようになるはずです。単語なら参考書籍やグーグル先生で調べられるし、計算式は後できちんと計算すればいいし、わざわざ急ぐ必要はないわけで。すぐに理解できないって方は予習するなり賢い友人に補講してもらうなり、初学者向けの本を読めばいいと思います。
当たり前のようで難しい「全体像の意識」「情報の取捨選択」はいくら強調してもしすぎることはないポイントでしょう。
⑥予習・復習を大事にせよ
これも当たり前。教授はすごい人なんだけど、ぶっちゃけ何言ってるかよく分からない(大意は読み取れるw)人なので言葉は割愛です。とりあえず自分で勉強しろって言ってました。うーん、twitterや記事を読む限り相当すごい人なんだけどな。笑
でも、私はあまり授業外時間を取りたくない人間なので、なるべく授業内で予習・復習できるような仕組みを日々考えています。あと議論が拡散するようで申し訳ないけど「予習(理解する+分からない部分を明確化)」「授業(理解を深める+知識を整理)」「復習(分からなかった部分を調べる+知識を定着させる)」ってこれ前半か後半の2つで十分じゃね?というのが自論です。理解して定着すればええやん。でもその2ステップを独学でカバーするのは意外と大変なので、そのうちの片方だけ授業に任せればいいと思うのです。予めテキストを読んでおいて教授の言葉で復習か、授業で理解して自主的に演習か。
どちらかというと予習・復習が大事なのはビジネスとかの実務ですかね。準備・本番・フィードバック。これは確かにどれも大事ですね。本番を上手くやり遂げるには絶対に先の想定と準備が不可欠だし、本番中の集中力と機転が結果に直結するし、その取り組み自体で終止するわけではないので後片付けを上手くこなさなければならないし、何より次により良い成果を挙げるためにはフィードバックが大事。優秀な人ほどこのサイクルが顕著なのではないでしょうか。
そう考えると、何かを120%マスターする、何かを120%活用するに当たって、予習・復習のサイクルをどれだけ継続できるか…これが程度を測る良い指標になりそうな気がします。
んでちょっと思ったのですが、良い専門書ってこの予習・復習がやりやすいように構成されているんですよね。例えば初学者向けのマンキュー経済学では、ポイントを抑えてある部分を読めばそのトピックの概要が分かるし、章末の問題を解けば復習ができる。こういうちょっとした工夫が良書と呼ばれるゆえんではないかと。
逆に言えば、良書でなくても読者がこのサイクルをまわすことで大きな学習を得られるのではないか、というのが私の最近の意見です。よく非難の的になる(つーか私もよく非難するけど)ハウツー本や自己啓発本なんかも、きちんと復習すればかなり有益だと思います。問題なのは読みやすいため30分-1時間で読めて満足して終わってしまうって点だと思うんですよ。だから例えば『人生がときめく魔法の片付け』という本を読んだら、そこに書いてある片付けを実行してみる。『米財務省に学ぶわかりやすいプレゼン資料のテクニック』というネット記事を見かけたら、プレゼンの機会を得るたびに目を通すようにする。
情報が流れやすい時代だからこそ、これぞってものを1つ決めたら徹底的に吸収するクセをつけた方がいいんじゃないかなーというお話でした。
こんな感じです。剣道の師匠の言葉とかもあったりしますが、それらはまた別の機会に。
てなわけで、前回のお言葉と合わせてFinal Mixということでした〜。春だからね。良い言葉が溢れる季節だよね。この気持ちを大事にしないとね。GW過ぎたあたりにもう一度読みたいね、うん。
じゃあのノシ