社会起業といった言葉に代表されるように "政治によるトップダウン" から "民間によるボトムアップ" への転換が注目されていますが、最終的な結末は "NPOや市民団体が活躍する社会" ではなく ”政治の必要性が再認識される社会" なのではないか、というお話です。
井手英策(慶應大学経済学部准教授)さんの講義を聴いていて新鮮な観点だったのでシェアします。日吉キャンパスでは『社会問題』、三田キャンパスでは『財政社会学』という授業を担当しておられるのでどちらかの受講生であれば話に心当たりがあるかもです。
市民がまちを作る百人委員会
鳥取県の智頭町という過疎地域では「百人委員会」という、住民が自分たちで財政を決定する制度があります。これは地域財政の約2%に相当する金額の使い道を住民自らが決定する仕組みで、「獣害対策」といった緊急のニーズ解決から「森の幼稚園」というユニークな支え合いコミュニティの創造まで色々な企画が実現されていったようです。一応、議会が提案を否決することは制度上可能なようですが、住民からの支持を失うことで選挙が不利になるため事実上 否決は困難だとか。
自ら政治に関与することで、ニーズが満たされているとの実感が強まり、以前に比べて「税を負担しても良い」という意識が強まっているようです。これは国家レベルの増税問題にも言えることで、国民のニーズとは別の場所で税金が使われており(国民に迎合すれば良いというわけではありませんが)金の流れが不透明だったりムダ使いと揶揄されるような状況では払いたくないですよね。その意味では、こうした取り組みは非常に大きな可能性を持つものだと言えます。
「もう疲れた」で瓦解するシステム
ところがこの百人委員会。行き詰まりを見せているのが現状だそうです。委員会への参加や計画の実行などの負担が大きいことが原因だとか。多いときには1ヶ月の約半分が会議に費やされ、幼稚園の先生も自分たちがやらなければいけない。何らかの社会活動を経験したことのある方なら分かると思いますが、机上の空論で終わらせずに実行しようとすると、普通に仕事をするのと大差ない検討事項・作業量を処理しなければなりません。地域の人々で幼稚園を開くのであれば、人員管理・予算配分・場所の確保・児童の安全対策・親御さんへのサポート・カリキュラム…といったテーマが山積みで、さらに安全対策といっても建物・食事・体調管理・交通事故etc…とさらに細かく検討事項が出てきます。人口8000人の過疎地域の行政では役員さんによる協力も限界があるでしょうし、アイデアだけ丸投げするのであれば自治意識は以前と変わらなかったでしょう。
百人委員会の負担は大きく、最初はユニークなアイデアが活発に投げ交わされたものの、次第に参加者は減少してアイデアも陳腐なものになっていったそうです。准教授が講義で端的に言い表したフレーズを引用すると "善意に溢れている間は上手く回るが「もう疲れた」と誰かが言い出したら瓦解する" システムなのです。市民団体やソーシャルキャピタルの話では頻繁に "善意" の力が主張されますが、普通の社会人の方々は半月もの会議に出席できますか?自ら企画を実行できますか?
余談ですが、私が関西のとあるNPOの方から聞いた話では、代表に負担が集中してしまい、結局はその1人が折れることで団体が崩壊するというケースが少なからずあるようです。
自治体の役割を再発見する
ここまでが現状で、准教授は行政の方に対して提言を、学生に対して問題提起を投げかけました。すなわち
①そもそも「獣害対策」や「幼稚園の設置」は自治体が果たすべき責任ではないか?
②住民が汗をかくことで
→行政:ニーズが明確化された
→住民:事業に必要なコストを自分たちに関わりのあるものとして主体的に理解した
したがって「疲れたのであれば税金を払って下さい。自治体がサービスを提供します。」と住民に対して訴えるべきではないか?
③あるリーダーに政治や改革を丸投げする民主主義から納税者は生まれるのか?
ここから私見
このうち③は財政問題や民主主義の在り方といった論点に繋がると思いますが、ここを掘り下げると講義そのままなので置いておきます。①に関しては、財政難だと難しいのかなとも思いますし、現実として社会起業・市民団体といったボトムアップの流れが活発になっているのは「自治体が役割を果たせていない」からではないでしょうか。たとえ原因が自治体側であれ、市民側であれ、外部要因であれ。
なので①は所与の条件、③は放置として、②の部分に注目してみたいと思います。自治体が本来担うべき役割が十分に担えていない現状では、必然的にボトムアップの動きが注目されます。ところがソーシャルビジネス先進国と言われるアメリカでさえ、団体の大部分が利益率の高い分野のみに集中し、利益率の低い分野は見放されているのが事実です。日本ではもっとひどい。twitterや成功体験本で見かけるような華々しい活躍をしている団体はごく一部で、多くの市民団体は補助金でなんとかやりくりしているのです。
そうなると "善意に溢れている間は上手く回るが「もう疲れた」と誰かが言い出したら瓦解する" システムに他ならない。税収以上に不安定な歳入状況では要となるスタッフの数も限られてくるでしょう。華々しく成功している団体を参考にして経営を立ち回らせるしかありません。私が勉強しているテーマでもありますが、瓦解しない経営システムを確立するというのが1つの答えになるでしょう。これが最もポピュラーな解決案です。
市民団体の出口戦略
もう1つの解決案が「出口戦略」です。つまり組織を維持するのではなく、解散することを前提にしたプランを組むのです。どういうことかと言うと、まさに②の通りなのですが、社会活動を通じて「自治体が役割を果たせる」土壌を作る。それは市民の意識かもしれないし、ニーズの明確化かもしれないし、個々の課題によって変わるでしょう。その上で、自治体への橋渡しができたら組織を解散させる。するとより効率的な形で問題を解決できる(かもしれない)。
この「出口戦略」の観点が非営利組織にはまだ欠けているのではないかと思いました。もちろん、智頭町のケースではたまたま当てはまっただけで必ずしもすべての市民団体に当てはまるわけではありません。しかし問題解決のために "既存の資源を利用する" 姿勢が重要なのは疑う余地はなく、行政というのは最高の資源なんじゃないかと思うんですよね。あるいは行政ではなくても何らかの "既存のシステムを本来あるべき姿で再活用する" というのはポイントじゃないかと思うのです。
そう考えると、近年ブームとなっている市民団体は「行政の本来の役割」を、社会起業は「ビジネスの新しい市場(=本来のビジネスの性質に乗っ取った経済活動)」を、再発見するためのプロセスだと言い換えることもできそうです。21世紀型の社会システムが落としどころに着地したときには市民団体という形態がなくなってるかもしれない…と言うのは少々極端でしょうか。
以上、雑記でした。
出口戦略の可能性や、既存システムの再発見といったポイントが私にはなかなか新鮮だったのでシェアさせていただきました。まだまだ色々な可能性や論点が眠っているように思えるので結構面白いですよね。というか社会システムは落としどころに着地できるんですかね。
ではノシ